オレンジ宇宙制作室

いとおしい人

 玄関の前に蛾の死骸がよく落ちている。
 手洗いの水道のセンサーがなかなか反応しない。
 携帯の電波がいつも一本足りない。
 図書館で借りた本に髪の毛が挟まっていることが多い。
 それなりに混んでいる電車内で、隣の席がずっと空いたまま。
 何もないのに「どうしたの、大丈夫?」と皆から聞かれる。
 それでも「毎日楽しい」と笑っている。
 
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ナナからの手紙

 博士、お元気ですか? 家でゆっくり本でも読んで過ごすなんて言ってたのに、毎日研究所に顔を出してるって助手さんから聞いてますよ。そのうちまた旅に出てしまうんじゃないかって心配してました。
 私は今、山間の小さな村に来ています。ここは私が生まれた村に似ています。故郷を思い出すと、懐かしいと同時に切ない気持ちでいっぱいになります。
 十五年前のことは忘れたことはありませんが、この村に来てから改めて振り返ってみました。博士と初めて会ったときのこと、博士と一緒に旅をしようと決めたときのこと。何もなくなってしまって、どうしようもなくて、その現実を直視することすら怖くてできず、私は弱くて、あの場から逃げることしかできませんでした。その選択は間違っていたのではないかとこの十五年の間に何度も考えました。懐かしい人たちのことを思うと今でも罪悪感がこみ上げてきます。
 でも、あのまま村に留まったとしても後悔しただろうとも思います。なくしたものがどうしたって元に戻らないのはわかっていましたし、私は逃げることでしか立ち上がれなかった気もします。そして逃げるチャンスは一度きりでした。
 博士との旅は魅力的で、たくさんの出会いもあり、私はいろいろなことを知り、自分の歩く道を見つけました。博士と旅に出ることを選ばなければ今の私はありません。私の同行を許可してくださったこと、本当にありがとうございます。
 博士の後を継ぐと決めた今でも、ずっと現実逃避しているんじゃないかという思いは消えません。いつか帰ってきちんと向き合わないといけないと思いますが、まだ帰れないんです。故郷に帰れると思ったときに私の旅は終わるんじゃないかって思います。博士の旅の終着点があの島だったみたいに。
 自分のことばかり書いてしまってすみません。この村では特におもしろいものはなかったのですが、隣の村に変わった花の咲く草があると聞きました。明日はその村に行ってみようと思っています。
 それでは。ナナでした。
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座席の下の手

 電車の中で携帯の画面を見ていて、視界の端で何か白っぽいものがちらちら動いているのに気付いた。視線をずらすと、向かいに座るおじさんの足元に小さな手が見える。細い腕は子どものようだ。しかし、いくら子どもでも座席の下に隠れられるスペースはないだろう。動いている様子は人形やロボットの類には見えない。
 小さな手はおじさんのズボンに何かを付けていた。目を凝らすと洗濯バサミだった。ピンク、黄色、水色、またピンク。腕の付け根は座面の裏に伸びていて、そこから洗濯バサミを持って出てきてズボンに付けて、また座面の裏に引っ込むのを繰り返している。おじさんは気づいていないらしく本を読んでいた。あっけにとられて、私はそれをただ見ていた。
 駅に着いて、おじさんが立ち上がる。ズボンにはふくらはぎから裾まで綺麗に洗濯バサミが並んでいて、たてがみかフリンジのようだ。私は思わず吹き出してしまった。おじさんはそのまま電車から降りていく。向かいの座席の下では小さな手がバイバイしていた。
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軽やかな文学、越冬

 飛んできた紙飛行機を順番に並べた。背中の文字は物語になっている。ひとつの群れでひとつの物語だ。読み終えたと思ったら、すぐ、また飛んで行ってしまった。どおりで今朝はやけに寒いと思った。
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恋人の名前

 佐倉とサクラは恋人だった。
 ふたりは結婚して、彼女は佐倉サクラになった。
 佐倉とサクラは今は夫婦だ。
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恋人の性別

 ふたりは恋人だった。
 ある日、ささいなことで喧嘩になり、片方が片方に重傷を負わせてしまった。
 それから、彼は男性、彼女は女になった。
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ビューティフルデイズ

 目覚まし時計が鳴っている。枕元に手を伸ばそうとしたら、何かにぶつかった。
「痛っ」
 手も痛いけれど、頭も痛い。背中も痛い。目を開けたら床で寝ていた。手が当たったのはベッドの足だ。全然覚えていないけれど、何でこうなっているかは想像がつく。さび付いたみたいに固まっている体をゆっくり起こして手を伸ばし、ベッドの枕元の目覚まし時計を止める。
「あー頭痛い」
 飲みすぎた。会社休みたい。今日何曜日だっけ?
「携帯。かばん」
 声に出しながら、辺りを見回す。テーブルの上にコンビニの袋と鍵。キッチンに通じる扉が開けっ放しで、その向こうにかばんが落ちているのが見えた。
 立ち上がろうとした拍子にひざが何かに当たって、トンっと鈍い音がした。見ると、ウーロン茶のペットボトルが倒れて半分以上入っていた中身がこぼれ出している。
「うわ」
 慌ててペットボトルを起こして床をティッシュで拭いたところで、自分が靴を履いたままなのに気づいた。コートも着たままだ。
「あーあ、もー」
 反省はするんだけどな。どうしてまたやっちゃうんだろう。
 テーブルの上の袋の中を見ると、サンドイッチが入っていた。朝食のつもりで買ったのだろうか。そう思って手に取ると、すでに包装が開けられていた。夜食のつもりだったようだ。ハムとレタスのサンドイッチをひとつ取り出すと、パンが乾いてぱさぱさになっていた。一口食べる。全然おいしくない。
「ていうか、まずい」
 サンドイッチを無理やり口の中に押し込んで、口直しにウーロン茶を飲んだら予想以上にぬるかった。なんだかおかしくなって一人で笑って、私はやっと靴を脱いで、ベッドで寝ている彼に言った。
「ただいま」

製品カタログ13「不思議な気持ち」収録。


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