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オレンジ宇宙制作室(創作文章ブログ)

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(10)

 いくらか歩いたところで、エリーがマリエを振り返った。足を止めて、マリエが隣に並ぶのを待ってくれる。
「さっきはどうもありがとうございます。あなたが来てくれなかったらと思うと、本当に……」
 カザマに掴まれていた腕をさする。彼女の顔がまた青くなるのを見て、マリエはおせっかいと思ったけれど言わずにはいられなかった。
「差支えなかったら、何があったのか話してもらえませんか? 話すことで落ち着くかもしれませんし、必要ならユートさんに伝えることもできますし」
 そして、マリエは上を指差す。
「音声は拾っていないんですが、映像は送られているんです。今は特殊な環境なのでずっと見守られています。人に知られたくないことなら、口元を隠して話してください」
 エリーはガーディアンを見て、難しい顔をした。
「あなたは話をしても平気なのですか? 眠らされてしまったりしないの?」
「大きく感情が動くことでなければ、話はできます。……あ、すみません。今は気持ちを抑えるようにしているので、お話聞いても的確な反応ができないかもしれないです」
「気持ちを抑える、ですか……」
「えっと、なるべく何も考えないようにって」
 エリーがカザマとのいきさつを話してくれたとしてもこれじゃあまり役に立てそうにないと今さらながらに気づいた。
「すみません。伝言役くらいしかできそうにないですね」
「いいえ、お気遣いありがとうございます。でも、あなたの負担になりそうなので、今はやめておきましょう。彼が戻ってくる前にわたくしは失礼しますので、ユートさんにはお礼だけお伝えください」
「はい、わかりました」
 ふんわりした優しげな笑みを浮かべるエリーに、マリエはわずかに笑みを返した。
 大広間の入り口で落ち合ったカオリもエリーと顔見知りのようで、彼女がマリエと連れ立って来たのを見て不思議そうにした。今日のカオリは、落ち着いたグレーのドレスだった。大きな真珠のイアリングが光っている。
「エリーさん、お久しぶりね。いらしてたの?」
「ええ。でも、今日はもう失礼させていただこうと思っています」
「あら、残念だわ。パールハールにはいつまでいらっしゃるの? 時間があったら『ミネヤマ』にもご招待したいわ。マリエのパンは召し上がった?」
「もちろん。おいしかったですわ」
「本当ですか? ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいです」
「パンだけであんなに甘いなんて、初めてでしたわ」
 そう話す二人を見比べて、カオリが聞く。
「エリーさんとマリエは、どこで知り合ったの?」
「先ほど、マリエさんには危ないところを助けてもらいましたの」
 エリーが冗談めかして言うと、カオリは目を点にした。
「まあ、また? ……引きがいいというか、なんていうか」
 カオリは呆れたように言う。
「マリエ、エリーさんはガーベルンドラーの知事のお嬢様よ」
「え? そうなんですか?」
 ガーベルンドラーと言えば、ディーランサが属する星群の、隣の星群にある星だ。移民の歴史が古く人口が多いため、公的機関の支部も集まる、政治的に重要な星だった。そこの知事なら、この辺りの宇宙域では一二を争う政治家と言える。
「やっぱり、知らなかったのね」
「すみません、無知で」
「いいえ、有名なのは父だけですから」
 エリーはそう言って、少し寂しげに笑った。しかしそれは一瞬で、カオリやマリエが何か言う前に、エリーは上品な笑顔を浮かべ直す。
「わたくし、このホテルに泊まっているんですの。パールハールにはもうしばらく滞在する予定なので、また改めて」
 カオリにそう約束をして、エリーは去って行った。
 それを見送って、カオリが尋ねた。
「ユートとは会わなかったの?」
「それが……」
 そこでマリエは、ユートの伝言と一緒に、エリーとカザマのことを話す。カオリは驚いたり眉をひそめたりしながら聞いていた。
「ガーベルンドラーのカザマ氏ね。私も気にしておくわ。エリーさんにはあとで私からいきさつを聞いておくから、あなたは心配しないで」
「はい、よろしくお願いします」
1996.12.13 22:12(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(9)

 何か言い争っているような声を聞いたのは、階段を下り始めてからだった。マリエはゆっくりと、階下を覗き込みながら下りる。
「ここまで来てやったんだから、俺の相手をするのが筋じゃないのか」
「そちらが勝手についてきたんでしょう? お話なら、父も一緒のときに改めてうかがいますから」
 男性と女性だ。
「いいから来い!」
「やめてください! 触らないで!」
 不穏な流れだった。マリエは慌てて踊り場を回り込む。階段を下りたところ、廊下の突き当たりに非常口がある。その手前に、濃紺のスーツの男性と水色のドレスの女性がいた。披露会の客だろうか。男性が女性の腕を掴んで引っ張るのを見て、マリエは階段を駆け下りた。慣れないヒールとロングドレスに危うく足を取られそうになりながら、二人と非常口の間に滑り込んで、後ろ手でドアノブに触れた。
「ごめんなさい。今、私が触ってしまったので、このドアは開かないと思います」
 電子キーなのだ。停止時は施錠で固定されるはずだった。
 突然割り込んだマリエに、二人とも驚いたようだった。女性は二十歳前後で、男性は彼女より一回りくらい上に見えた。
「腕を離してあげてください」
 マリエが言うと、男性は居丈高に大きな声を出す。
「君には関係ないだろう! そこをどきたまえ」
「嫌です」
 マリエは静かに、しかしきっぱりと言って男性を見上げた。
「それに、私がどいてもドアは開きませんよ」
 ばさりと羽音を立てて旋回するポチに気づいた男性は、唇を歪めて笑った。
「ああ、君がSOFの?」
 その嘲笑に、マリエは固まる。こういう反応があるだろうとは想像していたけれど、実際に向けられるのは初めてだった。身内や施設関係者以外でも、今までマリエが関わった人は全員マリエに好意的だった。
 マリエは即座に感情を抑えた。何も考えてはいけない。ここは鳥かごの外なのだ。
 どうしたらこの場が収まるのか、視線を巡らせると、ユートが見えた。マリエに気づくと、珍しく小走りに駆け寄ってきた。鳥かごで最初に挨拶したとき以来のトラディショナル・スタイルの服装で、やはりよく似合っていると思った。マリエには高級すぎて落ち着かないホテルの内装も、彼は少しの違和感もなく自分の背景にしてしまう。
「ユートさん」
 マリエがほっとして声をかけると、男性は振り返り、顔色を変えた。
「やあ、マリエ。ドレス似合っているよ」
 ユートは走ったことなどみじんも感じさせず、優雅に微笑む。マリエも合わせて微笑んだ。たぶん貼りつけたような笑顔だったと思う。ユートは少し眉を寄せた。それから、男性に目をやる。
「こちらは?」
 聞かれてもマリエは答えようがない。しかし、マリエが何か言うよりも前に男性は自ら名乗った。ずっと掴んだままだった女性の腕からあっさりと手を離し、ユートに握手を求める。
「私は、ガーベルンドラー星を拠点に貿易会社を営んでいますカザマと申します」
「初めまして。ユート・ミツバです。今日は披露会に?」
「ええ、バナールルーウォン社のナナオ氏にお願いして連れて来ていただきました」
「そうですか、どうもありがとうございます」
 ユートはカザマと握手し、女性を見た。
「エリー・トワダさん、お久しぶりですね」
「ええ、こちらこそ、お久しぶりですわ」
 マリエが駆け付けたときは蒼白になっていたエリーは、ぎこちなくも上品な笑みを返した。
「今日は出席くださってありがとうございます。あなたがいらっしゃると聞いて少し驚いたんですよ。お父上の元でお仕事を始められたんですか?」
「そういうわけではないんですが……、実は個人的な興味があって……」
「それでしたら、会場で商品の説明をしましょう」
 そう言ってユートはマリエを振り返った。
「エリーさんは、ヘルスケア機器や止まって困る電子機器を身に付けていますか? できれば会場まで彼女に付き添っていただきたいのですが」
「ええ、もちろん構いませんわ」
 エリーはマリエに微笑んだ。
「マリエ・シライさん、ですわね? 行きましょう」
「はい」
 エリーにうなずいてから、マリエは大事なことを思い出して、ユートに言った。
「ユートさん、私、このドアに触ってしまったんです」
「ああ、警備室から連絡があった。君が離れたら再起動させる手はずだ」
「そうなんですか、良かった。すみません、ご迷惑おかけして」
 マリエが謝ると、ユートは首を振った。
「迷惑とは思っていないが、心配はした。次から気を付けてくれ」
 眉間に寄った皺から、マリエがなぜここにいるのか彼はおおよそ察しているのだとわかった。マリエはほんの少しだけ頬を緩めた。それでも、さっきとは違って気持ちが籠った表情だった。
「心配かけてごめんなさい。でも、ユートさんが来てくれるって知ってたからできたんですよ」
 ユートは目を瞠って、そして、小さく笑った。それは、困っているようにも、痛みを堪えているようにも見えた。マリエは彼の表情の意味を考えないように、即座に頭から追い出した。
「会場の入り口でカオリが待っている。俺は復旧の連絡が来てから戻るから、そう伝えてくれ」
 そう言ったときのユートはもういつもの彼だった。冷静な目がマリエを見つめている。
「また、あとで」
「はい。では、失礼します」
 マリエはユートに少しだけ微笑んで、カザマにいちおう会釈してから、エリーに続いて歩き出した。二人と一緒に会場に戻るか迷っている風だったカザマに、ユートが話しかけて引き止めてくれたのが聞こえた。
1996.12.13 22:11(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(8)

 一時間もすれば予定していたパンは焼き終わった。「片付けは任せてください」と胸を叩くミドーに送り出され、迎えに来た叔母に連れられて、マリエはバックヤード経由で客室に戻った。まだ会場に出る決心はついてなかったけれど、このあとはコンロや石窯を客が触れるようにブースのガラスの一部を取り払うことになっていた。どちらにしても、マリエはブースから出るしかなかった。
 SOF用に改装された客室は、大広間の一つ上階にあった。表からも、バックヤードからも、階段を使って行き来ができる。客室の入り口にガーディアンの止まり木があり、ポチはばさりと音を立ててそこに舞い降りた。幾何学模様が浮き彫りされた木調の大きな扉にシロフクロウはやけに似合う。
 最新式の鍵なのでマリエはドアを開けられない。代わりに開けてくれた叔母に急かされて中に入ると、部屋の真ん中にトルソーがあった。叔母が用意してくれたドレスは、仮縫い段階で試着はしていたけれど、出来上がったのを見たのはこれが初めてだった。
 濃い緑のベルベットのロングドレス。広めに開いた襟はチヅルの白いレースで縁取られている。襟ほど目立たないのだけれど、絞った腰から裾に向かって流れるようにさらりと上品に広がるスカートにも、螺旋状にレースが飾られていた。ドレスの生地と同色の糸で編まれた植物模様には、よく見ると、きゅうりやトマトが紛れ込んでいた。
「これもチヅルさんのだよね?」
 スカートのレースをチヅルが作っていたのは知らなかった。そう尋ねると、叔母は微笑む。
「そう。秘密にして驚かせたかったんですって」
 マリエは言葉にならない。このレースを編むのにどのくらいの時間がかかったんだろう。そっと触れると、チヅルが抱きしめてくれたことを思い出した。
 チヅルもルウコも、他のSOFも施設の職員も、皆がマリエを応援してくれている。
「披露会に出るでしょう?」
 叔母に聞かれて、マリエは大きくうなずいた。
「うん、出るわ」
 ドレスを着付けてもらって、髪をセットしてもらう。きちんと化粧するのは初めてだった。
「これで大丈夫? おかしくない?」
 鏡を見て、叔母に確認する。
「大丈夫よ。似合ってる。写真撮って印刷してあげるから、チヅルさんに持って行きなさい」
 写真を撮ってもらっていると、内線電話が鳴った。壁に取り付けられているから、マリエはそちらに近づくときはSOF範囲に気を付けるようにしていた。内線を取った叔母が、マリエを振り返る。
「ユートさんがこっちに向かうから、マリエも出て来れるかって」
「うん。わかりましたって伝えて」
 返事をして、美容師のタバタにドアを開けてもらう。長いスカートがふわりと足元で揺れる感触がくすぐったい。踵の高い靴に背筋が伸びる。アップにしてもらったうなじが風を感じるのが新鮮だった。
「叔母さん、タバタさん、どうもありがとうございます。行ってきます」
 室内にそう声をかけてから、マリエは一歩踏み出した。
「ポチ」
 シロフクロウが止まり木から飛び立つのを待つ間、浮足立った気持ちを落ち着かせる必要があった。
1996.12.13 22:10(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(7)

「お客さん、入ってきたそうです」
 壁の内線電話を切ったミドーがそう言った。マリエはうなずいて、緊張で硬くなった表情を意識して解く。
 披露会の会場は、ダンスホールにもなる大広間だった。パールハールで一番高級な『ミツバ・クラシック・ホテル』。マリエが行き来できる場所は、この大広間と厨房、SOF用に改装された客室だけだ。しかしそれだけを見ても、建物全体が工芸品のような、有機的で重厚なデザインにはため息が出るばかりだった。これがユートのいる世界なのか。自分とは本当に何もかも違うのだと身に染みて思い知らされた。
 名前の通りのクラシカルな見た目とは逆に、設備は最新式だ。壁に空調管理や防犯のための電子機器が埋め込まれていると聞いて、うっかり壁際には近寄れなくなってしまった。廊下と階段はひたすら真ん中を通っていたマリエだった。
 大広間の後方、バックヤードに通じるドアの前を特殊ガラスで区切って、パンづくりの実演ブースにしていた。マリエと助手のミドーの二人は、朝からずっとここでパンを焼いていた。ブースの外から中は見えるけれど、中から外は見えないし音も入らない。客がいても、考えなければいないのと同じだ。
 マリエは一度息を吐く。見上げると、ガーディアンのシロフクロウ――ポチが旋回していた。保護施設では個室と鳥かごや調理棟の間の移動でしか世話にならないから、こんなに長時間一緒にいるのは初めてかもしれない。ポチがくるっと首を回してマリエを見た。マリエは軽く手を振る。今、ポチの映像はこのホテルの一室に送られている。そこで見ているのは施設から付き添ってくれているヨシカワだった。
「マリエさん、お願いします」
 ミドーに声をかけられて、マリエは石窯を見る。施設で使っている石窯とは別のものなので、熱の伝わり方の癖が微妙に違い、昨日ここに着いて最初に焼いたときは少し手間取ってしまった。
 温度計と湿度計を確認して、窯内に霧吹きをかけて、プチバゲットの乗った天板を中に入れる。昨日から焼いてわかってきたちょうどいい場所に置き、扉を閉める。
「二十分で」
 そう言うと、ミドーはタイマーをセットしてくれた。施設で試作をしているときから砂時計はやめて、ミドーにタイマーを使ってもらうことにした。マリエがうっかり触らないように壁のホワイトボードに、オーブン用や発酵用などいくつも貼り付けられている。
 そのうちの一つが鳴る。
「一番の窯です」
 ミドーにうなずいてから、マリエは扉を開ける。見たところ問題なさそうなので、ミドーにあとを任せる。これは施設で焼いておいた分を温め直していたものだ。
 今日は石窯もコンロも三台ずつある。全部使わなくても出来る範囲で構わないと言われていたけれど、マリエは次々焼いていった。
 ミドーに内線で呼ばれてパンを取りに来た配膳係に、客の様子を聞く。
「お客さん、どうですか?」
「マリエさんがかわいいって、皆さんおっしゃっていますよ」
「は? いえ、あの、そういうのじゃなくて」
「シロフクロウも人気です」
 マリエよりも十は年上に見える落ち着いた雰囲気の男性が真顔で冗談を言うから、マリエは思わず微笑む。緊張していて吹き出さなかったのが幸いだ。
「だめですよ。今は笑わせないでください」
「そうですよ。僕だっておもしろいことを言わないように我慢してるんですから」
 ミドーが真面目に言うのもおかしい。
「社長の挨拶が終わった段階で、まだ食事は始まっていないんですよ。次のパンが焼けるときには、パンの評判も仕入れてきますので楽しみにしていてください」
「はい。ありがとうございます」
 配膳係の男性が去って、厨房に渡す洗い物を片付けながら――さすがに流し台を大広間に設置することはできなかった――、ミドーはマリエに聞く。
「マリエさんもあとで披露会に出るんですよね?」
「いちおう、そういうことになっているけれど」
 ドレスも用意してもらって、髪や化粧を整えてくれる人も頼んである。出ると言っても檀上で紹介されるわけではなく、最低限の必要な人に挨拶するくらいだ。それでも、本当に会場に出て行って大丈夫なのか、自信はなかった。
「ちょっと行って、無理そうだったらすぐ帰ってくればいいんですよ」
「皆そう言うけれどね」
「うちのマネージャーだっていますし、ミツバの御曹司さんだっているんでしょう? マリエさんのお父さんだって」
 鳴ったタイマーを止めて、「三番の二次発酵です」と告げてから、ミドーは続ける。
「お客さんの反応を直接見れる機会って大切ですよ」
「うん、それはわかってる」
 マリエは小さくうなずいてから、パン生地を扱うため話を打ち切った。
1996.12.13 22:09(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(6)

 披露会の二週間前、やっと時間が取れたユートは施設を訪れた。日帰りで往復する強行軍だった。
 管理棟の受付で偶然ミドーに会い、今日はパンづくりが休みで、マリエは鳥かごにいると聞いた。マリエの助手にカオリとフジモトがつけたのは人の良さそうな少年だった。なんで男を、とカオリに抗議したら、力仕事を任せられるでしょ、と返された。
「いちいち嫉妬するのやめなさいよ。見苦しい」
「嫉妬じゃない。心配だ。作業中はずっと二人なんだろう」
 そう言いながら、本当にそのとおりだと不安が募る。
「もう一人女性をつけた方がいいんじゃないか」
「はぁ?」
 カオリには冷たい視線を向けられた。
 それでユートは、一度パンづくりを見学した。ミドーはマリエを職人としていかに尊敬しているか語った。聞いてもいないのにそんなことを説明するあたり、彼はユートの見学の目的を把握しているとしか思えないのだが、深く考えないことにした。作業中の二人を見ていれば、ユートの心配は杞憂だったとわかる。安心はしたものの、マリエの作業の先を見て阿吽の呼吸で必要な道具を用意したり、二人にしかわからない表現でパンの出来を話すのを見せつけられるとそれはそれで不愉快だった。しかし、マリエから器の小さい男だと思われるのは我慢ならず、ユートは必死に飲み込んだのだった。
 鳥かごの入り口のアーチの根本に、いつの間にか蔓薔薇が植えられていた。ユートの腰丈くらいの苗木だったけれど、何年かしたら入り口のアーチが薔薇のトンネルになるだろう。マリエの計画だった。不自由な環境でも、できるだけ楽しくすごそうと考える彼女が、いつもまぶしかった。
 ひるがえって自分はどうだろうか。親から命令されたわけではないけれど、ミツバの嫡男として、子どものころから将来は決まっていると思っていた。別の選択肢など考えたこともない。納得して今の職に就いてはいる。しかし、積極的に自分で選んだ気はせず、流された結果と思えなくもなかった。マリエに出会って初めて、自分の現状を恥じる気持ちが生まれた。こうやって自分が変わっていくのが心地良くもあるのが不思議だった。
 ベンチにはマリエとチヅルとヨシカワがいた。チヅルは相変わらずレース編みをしている。女物のレースなど興味はないが、子どものころから一級品を見てきたため見る眼はある。彼女のレースが素晴らしいものだというのはユートにもわかる。
 チヅルの隣に座るマリエは、彼女の肩に頭を載せて寝ていた。
「マリエは寝てるのか」
「開口一番それですか」
 二人の向かいのベンチに座って何かの書類を読んでいたヨシカワが呆れたように言った。
 ユートはマリエの隣に半ば無理やり座る。マリエの体を自分の方に寄りかからせて、チヅルの肩から彼女の頭を引き取った。チヅルは手を止めてユートを一瞥した。最初は驚いた彼女の無表情にも、何度か会ううちに慣れた。それに、マリエに対してはわりと言葉を発するし、微かに表情が動くのだ。
「レースが編みにくいでしょう?」
 チヅルは無表情のまま小さく首を振って、また手元に視線を移してしまう。どういう意味なのかわからなかった。何も言わないからこれで構わないんだろうと解釈して、ユートはマリエを見る。よほど疲れているのか身じろぎもしない。頬にかかる髪を除けてやると甘い匂いがした。髪を指に絡めると、するする滑る感触が気持ちいい。
「ユートさん」
 ヨシカワが責めるような口調で名前を呼ぶ。
「なんだ?」
「なんだじゃないですよ。あなた案外手が早いんですね。自覚あります?」
「失敬な。寝ている女性に何かしようなんて思わない」
「その『何か』の内訳が、僕とあなたで違うような気がするんですがねぇ。髪に触るくらいいいだろうって思ってるでしょ」
「だめなのか?」
 驚いて尋ねると、チヅルがこちらを見た。無表情なのは変わらないのになんとなくとげとげしさを感じる。
「ああ、申し訳ない。髪にも触らないようにする」
 両手を挙げてみせると、チヅルは顎を引くようにして少しうなずいた。それからテーブルの上のハサミを取り上げ糸を切る。今度は針を手にしばし何かやっていたかと思うと、出来上がったらしく、レースを広げてヨシカワに見せた。濃い緑の糸で編まれたリボン状の長いレースだった。
「いいね。綺麗だ」
 ヨシカワが目を細める。優しげな笑顔は初めて見る種類のものだった。
「マリエも気に入ると思うよ」
 チヅルはふいにユートを見て、唇の前で人差し指を立てた。
「彼女には秘密なのか?」
 仕草で察して、ユートは、自分もマリエには黙っておくと約束する。
 少し気になってユートはヨシカワに顔を向けた。
「あなたたち二人は恋仲なのか?」
「恋仲って。さすが公爵令息は古風な言い回しですねぇ」
 そう揶揄され、はくらかされそうになったのに気づいて、ユートは言い直す。
「デキてるのか?」
「ぶっ。それはそれで、ものすごく違和感が……」
 吹き出すヨシカワに、ユートは不機嫌をあらわにする。
「全く、何なんだ。……まあ、その件はもういい。言いたくないなら聞かない」
 自分が話題になっているのにチヅルは全く構わず、レース編みの道具を片付けている。そのまま立ち上がって去ってしまった。ユートが何か言う隙もなかった。
「気を悪くしたかな。謝っていたと伝えてもらえると助かる」
 同じく立ち上がったヨシカワにユートは伝言を頼む。彼は苦笑した。
「彼女は何とも思っていませんよ。大丈夫です。自分のことはほとんど気に留めないんで」
 歩いていくチヅルの背を見遣って、ヨシカワは言う。珍しく真面目な表情の彼に、ユートがかける言葉を考えていると、彼が先にこちらを見た。
「さっきのですがね。恋仲でもないし、デキてもないですよ。僕にはあなたほどの勇気はない」
「いや、そうは思えないが。形が違うだけだろう」
 セントラルにある保護センターに披露会の件の許可を取りに行ったときだ。マリエの移動を渋るセンターの所長に、ヨシカワは熱く訴えた。
「これから、絶対にSOF保護の方針が変わります。きっかけを作るのはマリエです。一度、うちの施設に来てみてください。もう保護という名目で閉じ込めるだけの時代は終わるんですよ。どこまで自由にすごしてもらえるか、それを模索する段階に来ているんです。このディーランサの保護センターが、先陣を切れるんですよ。――本部の保護機構への栄転も可能なんじゃないですか?」
 最後にはうまく乗せて、許可を取り付けたのだ。
「俺のは全部、自分のわがままだ。マリエじゃなければ何もしなかっただろうな。あなたのはSOF全体を考えての行動だ」
 そう言うと、ヨシカワは一瞬目を瞠った。それから猫背になって白衣のポケットに両手をつっこむと、自嘲するように唇を斜めにした。
「一人の女性相手には臆病なんですよ、僕は」
 そして、忘れず念を押していった。
「いいですか。チヅルを送ったらすぐ戻ってくるので、大人しくしててくださいね。マリエに何かしたら蹴りますからね」
 それでいてヨシカワは三十分くらい戻らず、マリエの髪の甘い匂いを近くで感じながら、ユートはかなりの忍耐を強いられたのだった。
1996.12.13 22:08(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(5)

 披露会の三月までは慌ただしく過ぎた。
 チヅルは快く――いつもの無表情だったけれど――了承してくれたので、パン工房の名前は『ドン・ラ・カージュ』になった。
 ユートは、披露会の会場になるパールハールで一番大きなミツバのホテルを、その日の前後だけSOF保護施設に貸し、保護施設の敷地扱いにすることでセンターの許可を取った。ホテルの一室にSOFセンサーと睡眠ガス発射装置を設置して、施設の個室のように改装して、マリエがパールハールにいる間、その部屋ではガーディアンなしですごせるようになる。披露会の会場ではガーディアンをつけて行動し、パン作りの実演は話していた通り、外部と遮断されたブースで行うことになった。
 保護施設からホテルへの移動の間は、マリエは眠らされる。これはSOF保護機構で決まっている世界的なルールだ。しかし実際、あまりSOFの移動は行われないから、センターはマリエの移動を渋ったらしい。詳しくは聞かなかったけれど、ヨシカワがセンターの職員を説得したとユートが言っていた。
 カオリとは何度も打ち合わせをした。カオリが経営する三ツ星レストラン『ミネヤマ』のシェフであるヒサシ・フジモトと、同じく料理人見習いのミドー・トモベを紹介され、三人の前でパンを作って見せた。
 最初にカオリと会ったときに話に出たのはオーガニックレストランだったが、マリエが作れる量を考えたら、オーガニックレストランで扱うには少なすぎるらしく、『ミネヤマ』で限定メニューとして出すことになった。披露会で宣伝して、その直後から提供が始まる。披露会でよほどの失敗をしなければ大丈夫、とカオリは請け負ったが、マリエはやはり不安に思っていた。そんなにうまくいくんだろうか。
「基本は家庭料理なんだな」
 三十代半ばのフジモトは、腕組みして言った。気難しげな顔で言われると非難されている気分になる。
 びくびくするマリエに、カオリが笑顔を向けた。
「この人、こんな顔だけど別に怒ってるわけじゃないのよ」
「最初はすごく怖いんですよね」
 ミドーも言うからフジモトは眉を寄せた。ミドーは十六歳で、見習いになって一年だという。マリエと同じくらいの背丈の華奢な少年だった。
 フジモトは変わらず仏頂面で、
「レシピは?」
「元は市販の本から。それを自分でアレンジしました」
「書き起こしてはいないのか?」
「材料のメモくらいですが」
 シライ家から調理器具と一緒に父に持ってきてもらったノートを見せる。ずっと昔に書いたものだ。それを見たフジモトは「大雑把だな」とまた腕を組んだ。
「でも、味が一定なのが不思議だ。……発酵とか焼き加減の見極めはどうやってやっているんだ?」
「今日の室温でだいたいの時間を考えて、あとは見た目でなんとなく」
「そういえば、生地や湯の温度を測らなかったみたいだが」
「あ、すみません。温度計はあるんです。でも、触ればだいたいわかるので」
 マリエが、アンティークの雑貨のようなアナログの温度計を見せると、フジモトは唸った。
「経験が違うのか」
「八年やってたんだから、ミドー君よりよほど長いじゃない」
「パンづくりとは関係なくて、電子機器を使えなくても不便がないように、父と訓練したんです」
 マリエがそう言うと、三人とも納得した顔でうなずいた。
「発酵は酵母の働きだから、生き物みたいなものなんだ。一つ一つ目で見て触れて向き合うことが味に影響しているんだろう。機械ではこうはいかない。今はイースト菌か?」
「はい、そうです」
「軌道に乗ったら、自家製酵母も研究してみたらどうだ? 参考になる資料をあとで送ろう」
「ありがとうございます」
 それからフジモトは、それでも数値は記録したほうがいいとアドバイスしてくれた。
 当日に用意できる種類と個数を相談して、事前に保護施設で作っておくものと実演で作るものを決めた。事前に焼いた分は、カオリが手配する保存車で輸送する。マリエは前々日には施設を出発しなくてはならない。予定通りに着けば、前日に実演分の生地の仕込みができるし、可能なら披露会で使う石窯で一度焼いてみたい。
 ミドーはマリエの助手につくことになった。申し訳なく思ったのだけど、カオリやフジモトの指示――『ミネヤマ』の方針――だし、ミドーも「いろんなことを経験したいんです」と言ってくれ、マリエは受け入れた。
 それは、保護センターとの間に問題が起こったせいでもあった。
 チヅルのレースが人気になって売り上げが伸び、マリエのパンも売れるのではないかと、センターは考えたようだった。今まで保護されたSOFは税金と寄付金で養ってもらっていた。それが、自力で稼いでいるのはおかしいのでは、ということだ。それで、SOFの経済活動を制限するかとなりかけたのだけれど、ユートやヨシカワが交渉してくれて、一定以上の収入があるSOFは施設に入居費を払うことでまとまった。運営費のことを考えると、センターとしてもその方が良かったのだろう。
 マリエはまだ収入はなかったから入居費は払わなくてよかったが、パン作りで使う光熱費をセンターに納めないとならなかった。そのため、カオリに『ミネヤマ』の料理人として雇ってもらい、材料費や光熱費、ミドーの滞在費などは『ミネヤマ』の経費として出してもらうことになったのだ。
 ミドーは管理棟に部屋を借りて、マリエのパン作りを手伝ってくれた。管理棟の調理室の冷蔵庫では距離もあって不便だったため、調理棟に一室増室してもらい、SOFが使えない機器を入れた。マリエはもちろんその部屋には入れないため、必要なものがあればミドーが出したり、作業したりしてくれる。調理室の空調は湿度も設定できるように変えてもらい、温度と合わせてデータを取ることにした。
 ミドーが来てから二月の半ばくらいまで、カオリやフジモトが選んだ材料を試してみたり、記録をつけながら味の精度を高めていく作業を繰り返した。週に一度は焼いたパンを『ミネヤマ』に送り、味を確かめてもらった。
「マリエさんは、重さもわかるんですか?」
 マリエが無造作に切り分けた生地を量るとほぼ等分になっているのを見て、ミドーは驚いていた。

 朝と夕方の数時間は、息抜きも兼ねて畑の作業をした。でも、パンを作り始めてから畑の方は滞りがちになってしまった。そんなマリエを手伝ってくれたのは、意外にもルウコだった。モトヤとハルオも巻き込んで世話をしてくれたおかげで、ブロッコリーや小松菜、ほうれん草などの冬野菜が収穫できた。これは施設の予算内の野菜だ。肥料だけはマリエが夏以降に試行錯誤していたものを使ってみたけれど、劇的においしくなった気はしなかった。パンのことで訪ねて来たカオリに食べてもらっても、やはり合格点はもらえなかった。
 土曜と日曜はパン作りを休んで、今までのようにSOFの皆と菓子を焼いた。
 出来上がった焼き菓子を持って久しぶりに鳥かごのベンチに座る。ドームの気温は冬の一番寒い時期を抜けた。雪を降らすことができる特殊仕様のドームもあるけれど、ディーランサで使われている一般的なドームは降雪機能がない。マリエは空調の冷たい風をマフラーで防御しつつ、まだ長時間は外にいられないなと思いながら、ミルクティを飲んだ。
「パン作ってばっかりで、マリエが鳥かごに来ないからつまんねぇ」
 モトヤが愚痴ると、ルウコが腰に両手をあてて反論する。
「何言ってるの! マリエが成功したらあたしたちだって自由にいろいろできるようになるんだから!」
 そんな風に思われていたなんて考えもしなかった。驚くマリエに、ルウコはキラキラした目を向ける。
「あたし、応援してるからね!」
「うん。ありがとう」
 内心では責任重大でどうしようと思いながら、マリエは微笑んだ。
「大丈夫ですよー。マリエさんのパン、すごくおいしいので」
 休んでいて構わないと言ったのに、毎回参加してくれるミドーが太鼓判を押す。外でずっと生活していた彼がそう言ってくれると、少し気が楽になる。
「できた」
 チヅルが短く言って、レースを両手で掲げる。隣に座るマリエに向かって翳すから、それが何なのかすぐにわかった。
「パーティのドレスに付けるやつ?」
 チヅルはうなずいて、手を回してマリエの首にレースをかけた。大小の薔薇の花が編みこまれた大きなつけ襟だ。叔母はデザイナーを連れて採寸に来てくれ、チヅルにレースを発注した。
 チヅルは襟の一ヶ所を指した。
「鳥」
「本当だ。かわいい」
 薔薇の枝に止まる横向きの小鳥は、SOF保護運動のシンボルマークの鳥に少し似ていた。ユートのミツバなのか、クローバーを嘴にくわえていた。
 大きな黒い瞳がマリエを真っ直ぐに見つめ、一度瞬きをした。そのままぎゅっと抱きしめられて、マリエは驚く。
「がんばって」
 マリエの耳元で、チヅルが小さく、でも力強く言った。
1996.12.13 22:07(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(4)

「本当に惜しいわ」
 ため息をつくようにカオリが言った。
「あなたのパン、どうにかして取り扱いたいのだけれど」
 デザートのプリンと紅茶を用意するのにカオリもついてきて、石窯を見せた。発酵の手順もざっと説明すると、しきりと感心していた。
「睡眠ガスの件を理解してくれそうな客にだけ提供するのは?」
 ユートがカオリに言う。
「そうよね。大々的に売り出さずに特別メニュー扱いで……。もし取り扱うとして、一日にどのくらい焼けるの?」
「カンパーニュなら数個でしょうか。でも、私以外もここを使うので、毎日は難しいです」
「ええ、もちろん、毎日働かせるようなことはしないわ」
 カオリは考え込むように黙る。
 父がマリエに尋ねた。
「睡眠ガスの件とは?」
「ほら、SOFが作ると睡眠ガスがかかるんじゃないかってお客さんが不安に思うでしょ? 食べ物だから」
「ああ、そういうことか。その場で作って見せてやれば理解してもらえるのにな」
 父はマリエに言ってから、ユートに顔を向ける。
「三月の披露会で、コンロと石窯の実演をマリエにやらせるのは無理だろうか」
「ええっ!」
 隣で聞いていたマリエが大声を上げてしまう。一方でユートは動じることもなく、
「できると思いますよ。方法を考えてみます」
「マリエが実演するなら、披露会の料理はうちに担当させて」
 カオリも言い出したため、マリエは慌てて話に割り込む。
「待って。そんなのできるんですか?」
「SOF保護のルールの方は抜け道を探してみるが……君の方は? 実演は難しいだろうか?」
 ユートに聞かれて、マリエは考える。人前で料理する? 知らないたくさんの人たちの前に出る? 想像もできない。
「わかりません……」
「やってみたくはない?」
「それは……」
 実演がうまくいけば、カオリのレストランでパンを扱ってもらえるかもしれない。そうしたら、自分でお金が稼げる。施設にいながら、外の世界に働きかけができる。――それはマリエの夢だった。
「やってみたいです」
 少しだけ声が震えた。隣の父がマリエの肩を叩く。
「マリエなら、ガーディアンの範囲でも料理できると思いますよ」
 ヨシカワが言った。トウドウもうなずいている。
「そうね。例えば、お客さんとの間にガラスか何かで仕切りを作って声が聞こえないようにしたらどう?」
「なるほど。それなら、客のいる外側からは見えるけれど、ブースの中からは外が見えないようにもできます」
「その方がいいです」
 トウドウとユートの提案にマリエが返事すると、ずっと黙っていた叔母が口を開いた。
「私は反対よ。そんなところに出て行ったら、マリエが見世物みたいになるわ。マスコミを呼ぶんでしょう? またあんな記事……」
「ハマモトさん。それはあとで説明させてください」
 ユートが叔母を遮ったけれど、マリエは聞き咎める。
「ユートさん、記事って何ですか?」
 言いよどんだユートに代わって答えたのはヨシカワだった。
「君がユートさんを助けたことが、大衆誌の記事になったんだよ。ミツバの御曹司を助けたSOFの聖女って」
「聖女? 私が?」
 自分のこととは思えない。たぶん実際にマリエの話ではないのだろう。会ったこともない人が書いた記事だ。
「お父さんや叔母さんは、その記事のせいで誰かに何か言われたの?」
「いいえ、それはないわ」
「私もないな。マリエの実名は出ていなかったし、否定的なものではなかったしな」
「それなら、良かった」
 マリエはほっと息をつく。自分のことで父や叔母が嫌な思いをしていないかが心配だった。
「私はどうせ外に出ないから、雑誌の記事なんて気にはならないわ」
「でも、マリエ。今はいいけれど、披露会は外でやるのよ? ユートさんは記事に出ているんだから、彼が兄さんと興した会社の披露会にあなたが出たら、すぐに皆関連づけて考えるわ」
「う、ん……それは……」
 以前、カオリと野菜の話をしたとき、SOFが作ったことを前面に出して売るのは嫌だと思った。
「助けたことを恩に着せて、施設の設備を整えてもらったり、特別に外に出してもらったりしていると思われるかな……。SOFの聖女じゃなくて、SOFの悪女って書かれたりして?」
 マリエは自嘲を込めて、わざと軽い口調で言った。
「そういうことは絶対にさせない」
 ユートが強く否定した。こちらに身を乗り出して言う。
「君の名誉は必ず守ると約束する」
 切れ長の目がマリエを真っ直ぐに見据える。彼の落ち着いた表情を見ると、ユートになら自分の運命をゆだねてもいいと思わされる。最初に会ったときからそうだった。
「野菜は難しかったけれど、あなたのパンなら、SOFだからって侮られない実力があるわ。食べればわかるのよ。睡眠ガスへの不安の解消は、作っているところを見てもらうのが一番手っ取り早いから、披露会はとてもいい機会だと思うわ」
 カオリも言った。彼女にパンを選んでもらったことは本当にうれしい。
 父はマリエの手を掴んで、ぎゅっと握る。
「お前の好きにしなさい」
 マリエは父の向こうに座る叔母の顔を見る。目が合うと、叔母は大きくため息をついた。
「やりたいの?」
「うん。やりたい。ここにずっと閉じこもってるだけじゃ嫌なの。……叔母さん」
「仕方ないわね……あなたがやりたいならいいわ」
「ありがとう!」
 マリエは父を押しのけるようにして叔母の手を取った。叔母はそれを握り返してから、きっとユートを見る。
「マリエを守ると言ったこと、忘れませんからね」
「もちろんです」
 誠意をもって請け負ったユートに満足げに笑い返してから、叔母は楽しそうに言う。
「それじゃあ、悪女なんて言わせないくらいかわいらしい衣装を作らなくてはね」
「え、衣装? 料理するんだから、コックコートじゃないの?」
「それはそうだけど、ドレスも作っておくのよ。実演したあとに着るの。せっかく外に出るんだから、パーティにも参加したらいいじゃない」
「ええーっ。叔母さん、言ってることがさっきと違うんだけど」
 マリエが呆れて言うと、カオリも叔母に賛成した。
「そうしなさいよ。あなたと話せば、誰も悪女なんて言わないわ。ユートが隣にいれば、完璧よ」
「まあ、カオリさん、あなたもそう思う? ユートさんは以前どこかのパーティでお見かけしたことがあるの。そのときと比べると、なんだか……」
「ええ。おっしゃりたいこと、わかりますわ」
 二人がうなずき合うのにマリエは意味がわからずユートを見た。ヨシカワがおもしろそうににやにや笑っているのも気になる。ユートは眉間に皺を寄せて、
「俺が隣にいて君を守るという意味だ」
「え、あ、はい……」
 父はどこか心配そうにユートとマリエの間に視線を往復させ、トウドウは苦笑していた。
「あの、パーティは大丈夫そうだったら参加するということで、とりあえずは実演の方だけ注力したいんですけど、いいですか?」
「ああ、もちろんだ」
 全員が今夜泊まる予定だったため、詳しい打ち合わせは明日になった。
 最後に、カオリがマリエに言った。
「マリエ・シライでもいいんだけれど、パン工房らしい名前が何かあるといいわね」
「そうですね……」
 マリエが首をひねると、ユートが発言を求めるように片手を上げた。マリエは苦笑して「どうぞ」と促す。
「『ドン・ラ・カージュ』は?」
 その名前をユートが出すとは思わなかった。マリエは驚いてユートを見つめる。彼はいたずらっぽく片方の眉を上げてみせた。
「あら、いいじゃない! ユートにしてはセンスあるわね」
「いや、俺じゃない。マリエだ。チヅルさんのレースのブランドにそう名付けたんだって聞いてないか?」
「そうなの?」
 カオリに聞かれてマリエがうなずくと、その名付けの場に立ち合わせた叔母が、
「チヅルさんに同じでいいか聞いてみたら?」
「たぶんいいって言うよ」
「私もそう思うわ」
 ヨシカワとトウドウにも後押しされ、マリエは微笑んだ。
「明日、聞いてみます。その名前、私も気に入ってるんです」
1996.12.13 22:05(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(3)

 食事会が行われたのは十一月だった。ドームの気温も秋から冬に変わっていく途中で、鳥かごですごすときには上着が必要になってきていた。もっと暖かかったら鳥かごのテーブルでも良かったのだけれど、食事会は調理棟の食堂で開催した。他のSOFは別の機会に譲ってもらって、今日はマリエの関係者だけだ。
 父も手伝いたがったので、前日から泊まり込んで協力してもらうことにした。昔からマリエがどうしてもできないことは父がやってくれた。そうして二人で料理をするのも懐かしかった。父と一緒に来たユートは気を使ってくれたのか、調理場には来なかった。
 ユートと父で作った電子部品を使わない道具の会社の名前が『M&Sクラフツ』なったこと。商品を売り出す目処が立ち、三月に披露会を開くこと。自転車だけではなく、ガスコンロや石窯オーブン、手動洗濯機なども売ることにしたこと。パールハールの家での暮らし。以前勤めていた大学に非常勤で戻ること。
 料理をしながら取り留めなく父は話した。
 マリエも、他のSOFと菓子を焼いたことや畑の土づくりのことなどを話した。
 夏までにマリエが作った野菜は、元々施設で育てる予定で予算が組まれていたものだった。それを職員の代わりにマリエが育てた体裁だ。けれど、予算外の苗や肥料、料理の材料などは、父に資金を出してもらっていた。父には感謝してもし足りない。
 バザーのピクルスの売り上げは全て施設に納められている。チヅルのレースも、今まではバザーで売る名目で材料費を施設に出してもらっていたらしい。それが、叔母の店で売るようになってから、その売り上げで材料を買うことができるようになった。バザー向けの作品は今まで通りだけれど、それ以外は材料を選ぶところから自由にできるようになったそうだ。マリエもできればそうなりたい。
 今日の材料はカオリが選んできてくれた。三ツ星レストラン御用達の野菜や肉なのだ。費用はユートが出してくれた。招待客に出させるのもどうかと思ったけれど「俺のわがままで君に作らせているんだから、そのくらい当然だ」と押し切られてしまった。
 できあがった料理を父と手分けしてテーブルに並べる。父のリクエストは、ローストビーフ、グラタン、根菜の煮物、ちらしずし。それぞれ父が好きな料理だったけれど、まとめて並べると節操がなかった。それに、サラダとパン、デザートにプリンを作った。パンはカオリに楽しみにしていると言われたこともあって、気合いを入れて、プチバゲットやリュスティック、カンパーニュを焼いた。バターが多いソフトなパンより、こういったハードなパンの方がマリエは好きだった。
 大皿に盛った料理を好きに取り分けてもらうことにしたから、マリエも席につく。
 食堂の大きなテーブルには、マリエと父と叔母、ユートとカオリ、それからトウドウとヨシカワもいた。
 ユートの手土産の高級そうな赤ワインを開ける。
「まあ、おいしいわね!」
 パンを一口食べたカオリが声を上げた。
「本当ですか? 取り扱えないのが残念なくらい?」
 以前の話を思い出してマリエは冗談で聞く。するとカオリは真剣な顔で返した。
「ええ。そうね」
 慎重に探るように咀嚼して、
「何が違うのかしら。材料は私が用意したものよね?」
「はい」
「発酵はどうしてるの?」
「今日はいっぱい焼いたんで、バゲットとカンパーニュは一晩管理棟の冷蔵庫に入れてもらって、リュスティックは湯煎で。二次発酵も常温と湯煎でそれぞれ」
「そうよね、発酵器は無理よね。それが違うのかしら。あとで石窯を見せてもらえる?」
 マリエは笑顔でうなずく。販売が無理だとしても、興味を持ってもらえて良かった。何よりもおいしいと言ってもらえたことがうれしかった。
「マリエの味ね」
「懐かしいな」
 叔母と言い合ってから、父は薄く切ったカンパーニュにサラダとローストビーフを挟む。
「お父さん、これから仕事ってわけでもないんだから、サンドイッチにしないでよ」
「いや、これがおいしいんだよ」
「それじゃあ、俺も」
 ユートも真似して、結局皆でサンドイッチにしていた。
1996.12.13 22:04(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(2)

 調理棟――新しい建物はそういう名前になった――ができてから、マリエは週に一度くらいのペースでパンや菓子を焼いていた。チヅルは見ているだけだったけれど、ルウコやモトヤは一緒に作ってハルオもときどき手伝い、料理は新しい娯楽になっていた。マリエとしては、娯楽ではなく日常生活であってほしいのだけれど、やはり普通の食事は管理棟の調理室で作られていた。しかし実際のところ、全ての工程を一人でできるわけでもなく、管理棟の冷蔵庫に保存してあるバターなどはその都度クーラーボックスで運んでもらったりしていたから、仕方ないことだった。
「マリエが来てから、できることが増えたね」
 意外に不器用なハルオが、歪な形のクッキーを天板に乗せながら言った。
「私が来るまで、皆何してたの?」
 マリエが聞くと、隅のテーブルで見ていたチヅルが「レース」と短く答える。
「毎日走ってた」
 モトヤが言って、ルウコは珍しく小声で、
「あたしはほとんど寝てたわ」
「そっか……」
「マリエは第二のダニー・ウィングになれるんじゃないかって期待してるんだけど」
 沈みかけた空気に、ヨシカワの声が響いた。
「え? ダニー・ウィングってあのSOF保護運動の?」
 六十二年前のSOF保護運動が起こる以前は、SOFは保護対象ではなく研究対象だった。保護施設も研究施設という名前で、SOFは自由に個室から出ることもできなかった。施設の指示で個室から出る場合、ガーディアンがつくのは変わらないが、当時は単なる箱型の監視カメラで常に録画録音されていた。今は安全管理のため管理棟に映像は送られているけれど音声は拾っていないし、録画もガーディアンのSOFセンサーが反応した時点から遡って五分間記録されるだけだ。ガーディアンという名前になったのも保護運動の結果だ。鳥形のロボットになったのは、監視されている圧迫感を和らげる目的もあったけれど、保護運動のシンボルマークが鳥だったせいもある。
 保護運動のきっかけになったのが、世界的に人気の俳優ジョー・ウィングの息子ダニーだ。彼がSOFを発露したことでSOFが注目を浴び、一般人にも研究施設やSOFの扱いの実態が知られた。ジョーが訴えたこともあり、SOFの人権を守ろうと世界的な運動に広がったのだった。
「私にはそんな力ないですよ」
 マリエが言うと、ハルオが首を振った。
「少なくとも、このパールハール保護施設には、十分貢献してると思うよ」
 皆がうなずくので、マリエは少し困って、
「鳥かごも調理棟もユートさんの力ですよ」
「ユートさんを動かしてるのはマリエだよ」
 ヨシカワが言う。いつもの冗談めかした雰囲気が感じられず、マリエは戸惑う。
 ダニーが父親のジョーを動かしたのとは違って、マリエがユートをこれから先も動かせるとは思えない。食事会の約束をしたのは、好きだと言われ、それを忘れてほしいと言われる前のことだった。だから、たぶんこの調理棟が最後の贈り物だろう。
 そう思っていたけれど、マリエは何も言えずにいた。
「時間」
 助け舟は意外なところから現れた。チヅルに言われて見ると、予熱時間を測っていた砂時計が落ち切っている。
「チヅルさん、教えてくれてありがとう」
 マリエが微笑むとチヅルは無表情のまま立ち上がり、
「隣」
 それだけ言って出て行ってしまった。食堂でレースを編みながら焼き上がるのを待つのだろう。
「さてと! 生地並べたやつから持って来て」
 気分を入れ替えて、マリエはガスを止めてから石窯の扉を開くと、手近にあった天板を中に入れた。
 視界の隅で、ヨシカワがチヅルを追って出て行くのが見えた。
1996.12.13 22:03(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |

彼女は鳥かごの中 - 3.鳥かごの外で(1)

 カオリのおかげで、バザーのピクルスの売り上げは上々だった。カオリは月に一度くらいのペースで遊びに来てくれた。他の農場で獲れたオーガニック野菜や、農法に関する文献を印刷したものを持って来てくれた。もらった野菜は本当においしくて、マリエはカオリの言ったことが実感として納得できた。今はもらった文献を参考に土づくりに取り掛かっている。一年二年でどうにかなることではなさそうだけれど、他にすることがあるわけでもないのだから気長にやればいいと思っていた。
 ユートは、あのあとも変わらず会いに来てくれた。好きだと言ったことなんて本当になかったようにふるまう彼を、マリエはときどき痛みをこらえながら、でも大部分はほっとする思いで迎えた。
 シャルメルボン郊外のシライ家から調理器具が運ばれて来たのは十月だった。
 マリエは居住棟の空き部屋が使えたらと思っていたのに、皆で食べる場所が必要だと言って、ユートは鳥かごの隣に調理場と食堂を備えた建物を建ててしまった。それぞれが個室の三倍くらいの広さの部屋で、鳥かごには遠く及ばないけれど、居住棟の個室よりは自由がある。
 鳥かごでお茶を飲むのに、今まではトウドウやヨシカワに頼んで管理棟から持ってきてもらっていたけれど、これからはここで自分で湯を沸かせる。設置したばかりのコンロでマリエが湯を沸かすのを、ユートは興味深そうに見ていた。
「ここを捻ると、ガスの量が調節できるんです」
「火力がそのまま温度に繋がるのか。では、調理時間は?」
「目で見るとか少し食べてみるとか、そうやって出来上がったかどうか確認します。……あとは、そうですね。単純に時間を計るだけなら、砂時計を使ったりもします」
「ああ、これは実用品なのか」
 小さな一分計から、三分計、十分計、三十分と六十分を測れる大きなものまであって、そこまで正確ではないけれど目安にはなる。その一つをひっくり返して、ユートは感心したように言った。
 ユートには言わなかったけれど、マリエは数分なら道具を使わずにかなりの精度で時間を計れた。暗算も得意だ。こういう生活に必要な能力は何度も練習したおかげで、他のSOFよりもマリエは格段に高かった。保護施設では電子機器から遠ざけるのが基本で、代替の方法を訓練させることはない。あくまで保護で、SOFの自立支援は施設の目的ではないからだ。道具を整えて、訓練してくれた父にマリエは感謝している。
 ユートと一緒に来た父が、シライ家で飲んでいた茶葉を持ってきてくれて、マリエは久しぶりに自分で紅茶を淹れた。菓子を焼く時間はないから、これも父が持ってきたクッキーを並べる。
「私一人じゃ食べないからな。あのとき家にあったものなんだ。湿気っていたらすまん」
「えっ、半年以上前のじゃない」
「半年……」
 父が絶句したように繰り返すから、マリエも何も言えなくなる。そんなに経ったのかとも思うし、まだ半年なのかとも思える。
「この三人でお茶を飲んでいるのが不思議ですね」
 黙ってしまった親子に向かって、ユートが朗らかに言った。
「全く、その通りだ」
 父が笑う。クッキーを一口齧って、「やはり湿気っているな」と言った。
「あのとき、君が犯人を蹴り飛ばしたのには驚いたよ。マリエがSOFだってのが嘘だったらとは考えなかったのか?」
 父はいつの間にかユートに丁寧語を使うのをやめていた。こうしてユートと話している様子を見るのは、幼いころ、自宅に学生を招いて話をしていたときの父を思い出して、マリエはうれしかった。
「嘘には思えませんでした。それにこちらも我慢の限界でしたし、目の前の女性を守らなくてはとも思いました。まあ、騙されるのがかわいい女の子なら、しかたないでしょう?」
「はははっ、そりゃあ、ディーランサ史に語り継がれるだろうね」
 あまり聞いていたい話じゃなくて、マリエは話題を変えた。
「そんなことより、お父さん、食事会のとき、何が食べたい?」
1996.12.13 22:02(Fri)| カテゴリー:彼女は鳥かごの中 | 個別表示 |
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